2011年6月25日土曜日

陸前高田市に行ってきました。

昨日(6月24日)に、岩手県の陸前高田市に行って参りました。
4月29日~5月15日に開催したチャリティセールの売上金の10%と店内の募金箱の義援金に弊社からの義援金を合わせて、ちょうど150万円にして陸前高田市に義援金として寄付してきました。

皆様のおかげで、何とか義援金を贈ることができましたこと、この場をお借りして御礼申し上げます。
当初は、日本赤十字社を通じて送るつもりでおりましたが、一向に被災地に届かないようなので、直接被災地の自治体に持参したのです。
陸前高田市は昨年大和市が開催した『全国うまいもの市』に出店していただいたり、「やまと商業活性化センター」のアンテナショップ『とれたて大和』に物産品を出品していただいたりしているので、直接送るならぜひここに、と思っておりました。
朝8時12分東京駅発の東北新幹線の特急はやて235号に乗り、11時23分に北上駅に着く。予約してあったレンタカーで、一路陸前高田へ向かう。途中昼食を済ませ、2時過ぎに、待ち合わせ場所の『川の駅』に到着。ここで、『とれたて大和』に出品していただいている「陸前高田地域振興株式会社」の鈴木氏と落ち合う。彼の車に乗り換えて、被災地を案内してもらうことに。海から10kmの地点を過ぎると、周りの景色は一変した。

のどかな田園風景が急に、ガレキの山と流された車の山に変わり、見通す限り民家は全くなくなった。ところどころにコンクリート造りの建物が流されずに存在しているが、すべて窓ガラスがなく室内はがれきでいっぱいになっている。 
テレビで見てはいたが、現場の光景は凄まじい限りで声も出ない。
ほとんどの車は、高速道路での事故車のごとくぺしゃんこに。

ここも元は、のどかな住宅街だった。






よく映像に出てきた県立陸前高田病院。
3階までの窓ガラスはすべて割れている。
現在は廃墟同然になっている。





海岸近くの駅があった場所。
線路も駅舎も商店街もすべて消えた。
橋だけがかろうじて残っている。

合掌。









30分ほど見て回り、仮の市役所庁舎へ向かう。
プレハブ造りの仮庁舎。


罹災証明書を申請する市民でごった返している。


総所帯約8000所帯の半分の4000所帯が被災したそうですが、そのほとんどが津波で全壊しました。







陸前高田市の市長は、震災の約1カ月前に就任したばかりの、戸羽太市長(46歳)。
自らも、最愛の奥様を津波で亡くされた被災者である。しかし、悲しみに浸る暇もなく地域の復興や被災者の救助の陣頭指揮を執り続けている。
頭の下がる思いで市長室に通された。
戸羽市長は、とても元気な顔で我々を迎えて下さり、現状の悲惨さや一向に国の方針が決まらないもどかしさなどを訴えながらも、大和の大木市長から激励の言葉をもらったことへのお礼を述べられていて、涙が出そうになる。


その後、持参した義援金を手渡し、被災者の方たちに役立てて欲しいことを告げる。


最後に「今、被災者の人たちに何が一番必要なものでしょうか?」と市長に問いかけると、即座に、『それは、職です。』と答えられた。
被災者のほとんどが、漁業や農業の従事者であったことを考えれば、家や船や土地を失った彼らに、我々は何をしてあげることが出来るのだろう。


義援金はほんの一時的な生活応援でしかない。やはり国が被災者達を立ち直らせる施策を講じていくしかない。誰が首相なのかなのではなく、何を被災地に対してできるかが問われている時なのです。それも一刻を争って考えなければいけないのです。足の引っ張り合いをしている場合ではないのです。


何もできないもどかしさに打ちのめされそうになりながら、市長室を後にしました。




帰りの新幹線の中で、この支援はずーっと続けていかなければいけないなあ、と心に誓いながら眠りにつきました。



義援金の領収書です。




                                              田野口